天使になるまでの1週間
言われ慣れていた「あと数日」
6月10日
いつもの月1の検査で病院へ行ったときに言われました。
るりが余命数日宣告を受けるのは3回目でした。
2月に大きく体調を崩したとき、るりがこのまま3月4月を迎えるのは確率の低いことだと言われていました。
皮下点滴の量を増やすも腕の付け根にたまり吸収できなくなり、髭はどんどんボロボロの短い枝毛に。
でも、食欲の低下はあるものの自分で食べて、キャットタワーの1番上までとはいかないもののタワーに登ったり爪を研いだりしていました。
だんだん貧血の注射や食欲の薬が効かなくなっていました。
BUNは1月から140オーバーで、それ以降は毎月検査しても同じ。
何回検査しても同じ。
この時点で焦って必死に調べるべきだでした。
諦めて苦痛を取ってただ見守るのではなく、まだ打てる手はないのかと。
るりが1歳で余命数日と言われてから元気になったとき、腎移植を検討しました。
まだギリギリできる数値だったのです。
予算、リスクと効果、倫理的問題、いろいろありました。
るりを亡くした今、倫理問題も予算もどうでもいいんです。
るりが助かればなんでもいい。
だけど当時元気そうなるりに移植を踏み切ることはできませんでした。
その日は静脈点滴を入院でやるか、日中だけ病院でやるかの話をして、とりあえず一晩入院させて様子を見て判断するためそのままるりを預けてきました。
夜間は念のため先生に病院にいていただきました。
先生は離婚されていて、高齢のわんちゃんと小学生のお子さんがいて、病院に泊まりこもうのはとても大変なことだったと思います。
本当にありがたかったです。
6月11日
朝の電話では、数値は下がってきているようだったのでそのまま続けてもらうことに。
ところが夕方、もうこれ以上は下がらないとのことで迎えに行きました。
1日でも2日でも食べられるうちに、好きなものを食べさせてあげてくださいと言われました。
病院でも療法食は食べなかったのでいろんなフードを用意してくださったらしく、ベビー用のカリカリを好んでいたと渡されました。
もうそんな段階なのかと他人事のように思いながら、るりにお刺身を買いました。
るりはひとくちも食べませんでした。
6月12日
翌朝お刺身を少し食べました。
昼間もお刺身を食べました。
るりの大好きな猫草の種は買ったものの、食べごろまで10日ほどかかるようで近所のめぼしいところに電話をかけまくりましたが「育っている猫草はない」と全てのところで言われました。
品薄なんでしょうか。
今日食べさせてあげたかったのですが叶わず、アマゾンで頼みました。
6月13日
急遽家族写真をお願いしました。
もともと2月に余命宣告を受けてから撮ろう撮ろうとは思っていたもののなんとなく流れていましたが、これは急ぎでやらなければと思いカメラマンの方に自宅に来ていただきました。
モデルの件といいこれといい、るりは最後までママのわがままを叶えてくれました。
6月14日
朝待ちに待った猫草がやっと到着。
お魚よりも猫草大好きなるり。
自分で食べ物を口にする最後になりました。
間に合ってよかった。
元気はないものの今日明日には見えなかったので午後2時間ほど外出。
帰ってくるとなぜか玄関まで来ず、トイレでくつろいでいる。
こんなことは初めてでした。
今思えば、体温が下がり始めていたんでしょう。
るりはものすごく機嫌よく甘えて、なぜか甘えながら唸って、一生懸命何かを言っていました。
あまりに変なので病院へ。
るりは自分から先生の膝に乗り、そのまま30分ほどくつろいでいました。
嫌なことしかしなかったはずの先生にもちゃんと挨拶ができるなんて、本当に私にはもったいないぐらいのできた子です。
帰宅して少しぐったりした様子。
高いところから飛び降りるときによろけてびっくりしてソファーの下へ。
それから、るりがパッケージを務めた座れるキャットハウスにこもりながら、喉を鳴らしながら、私たちにたくさん話しかけてきました。
なんとなく最期だろうと思いました。
それからるりは一切喉を鳴らすことがなく、明らかに死が近いのだろうという様子に。
意識障害が出始めたのでしょう。
今晩だと確信し、寝ないでるりに寄り添っていましたが、るりも一睡もせずに翌朝を迎えました。
6月15日
るりの様子は変わらず。
たまに水を飲んで、好きだった珪藻土バスマットを舐めて、という感じ。
夫が唐突に透析の話をしてきて、良い先生がいると私に見せてきました。
一応電話をかけて事情を説明しました。
電話で話した第一印象は「この人にるりを任せられない」
来年実用化の腎不全の新薬の開発にも携わっていて、かかりつけの先生と同じぐらいの年齢で同じ東大卒でした。
胡散臭すぎたので、いつもの先生に電話で聞いてみるものの、その人の名前は知らないと。
しかし優柔不断で決断力も行動力もない夫が強い目で私に、「透析をやろう、行ける距離に名医がいるんだ、しかも日曜日の今日あいている」と。
電車よりいいだろうと、夫はすぐにレンタカーを借りてきました。
しかし車の中でるりはものすごく騒ぐ。
どんどん弱っていく。
私がちゃんと断ればよかった。
万が一の可能性があるならとるりを連れていくことに合意はしたけれど、本当はるりにもう大変なことはさせたくなかった。
だけど夫の勢いに流されてしまった。
病院前に路駐して、大雨のなかるりを抱きかかえて走りました。
すぐに先生が診てくださいました。
「すぐに保温して静脈点滴をしなければ」
まだ透析を受けさせる覚悟がなかった私は、
「預けて大丈夫ですか?家で看取りたいんです。入院中急に死ぬことはありませんか?」
「急に死ぬ、ではないんですよ。この子は今この診察台で亡くなってもおかしくない」
医者には大きく分けて2パターンあるのだと思いました。
家族で過ごす時間を大切に、延命ではなく本人の苦痛を取る治療をという医者と、1分1秒でも命を続けさせるのが医療だという医者と。
私自身は前者で、るりのかかりつけの先生も前者で、でも今目の前にいる透析の先生は後者でした。
そしてそのふたつは両立できないということも理解しました。
私はるりを預ける覚悟をしました。
るりよりもっと酷い状態で、だいたいが死にかけでこの病院に来るそうです。
助からない子もいます。
助かる子もいます。
いつも「私なら」で選択してきました。
私なら、延命したくない。
私なら、病院で死にたくない。
私なら、最後は好きな人に看取られて死にたい。
だけど私とるりは違う。
るりは、生きたい。
面会時も静脈点滴は続けるというので、チューブに繋がっていない状態ではこれが最後かもと思い、るりを抱きしめてキスしました。
いつも通り迷惑そうな顔をしました。
そうしてるりを預けました。
6月16日
朝イチで病院から「透析の効果は抜群で順調に抜けてきている、しかし体温がどんどん下がっている。今すでに35度台まできている」と電話があり、すぐに向かいました。
駅で転びました。
間に合わないかもと思いました。
もし間に合えば、すぐにるりを連れて帰るつもりで、るりが入るバッグを持っていきました。
到着してすぐに、ケージの中で点滴を続けているるりを抱きしめました。
「神経症状が出ているので、強く刺激しないでください。そっと顔を撫でてあげてください」と言われました。
るりを抱きしめることもできないのかと思いました。
顔を撫でながら、るりの手をずっと握っていました。
ときどきるりは手を握り返してくれたり、何か話しかけてくれました。
このときもう意識レベルが下がっていたので、私を認識していたかもわかりません。
ただの筋肉の収縮反応なのか、違うのか、わかりません。
昨日るりの横のゲージで死体のようにぐったりしていたダックスが、元気に吠えまくっていました。
白内障の目をしていました。17歳だそうです。
2歳半のるりからは、気が遠くなるような年齢でした。
午後からその子のお母さんが面会にいらして、横で泣いている私を気にかけてくださいました。
面会中、点滴は続けながらも抱っこをしていて心底羨ましかったです。
私は抱きしめることもできないし、抱っこもできない。
お母さんは、私の話を聞いて一緒に悲しんでくれて、とてもうれしかったです。
その夜るりを連れて帰るか入院を続けるかを判断しなければいけませんでした。
夜の検査では、BUNは相変わらずオーバーで測定できませんでしたが、クレアチニンやリン、カリウムの数値は確実に良くなっていました。
異常に多かった白血球も正常値に。
透析で抜いた液は朝晩ともにBUNオーバーで、かなり抜けていました。
そのぐらい、それだけ抜いてもるりの体にある毒素は計り切れないほど、るりは悪かったのです。
おそらくBUN200とか300とか、ものすごい数値だったのではと。
体温もギリギリ36度台まで上がっていました。
ただ既に脳に障害が出ていたので、彼女の命と、透析でろ過する速度が間に合うかどうか。
ここで連れて帰ったら、るりのわずかな可能性を私が決めることになる。
だから病院で治療を続けてもらいました。
ここに泊まらせてほしいとお願いしたのですが、いろいろな問題でそれはできず、近くに泊まることにしました。
いざというとき駆け付けられるように。
絶対にひとりでは死なせない。
だけど最大限医療に賭ける。
るりちゃんちょっとがんばってね、また明日とキスをして別れました。
6月17日
午前1時45分、病院から電話がありました。
着信を見た瞬間に全てがわかりました。
「呼吸が止まって今私が措置をしています」
生まれて初めて、タクシーで釣りはいらんと言いました。
バッグを床に投げ捨て、心臓マッサージをされているるりに向かう。
一度家でお別れはしているけれど、意識のないるりにひたすら話しかけました。
もう脳に症状がいっているので、続けても意味はないと先生が言うのでやめてもらった。
私はやっとるりを抱きしめることができました。
その中で、心臓の位置に触れると機械が反応しました。
るりをいつものようにだっこすると、バランスを取ってくれないせいで重たく感じました。
首が座らず、だらんとしていました。
赤ちゃんに戻ってしまったのね。
手にはるりのうんちみたいなものがついた。
まだ暖かくついさっきまで息があったはずなのに、もう緩んでしまうんだ。
るりを預けて一度ホテルに戻りました。
淡々と、決めていた葬儀屋さんに電話をしました。
寝つけず、そのまま朝焼けを見ました。
とてもきれいな朝焼けでした。
朝るりを迎えに行くと、トリミングの部屋でトリマーさんがきれいにしてくれていました。
お風呂嫌いで拾って以来洗っていなかったので、さっぱりしたのかな。
生きている子と同じように、丁寧にブラシをかけて、ふわふわにしてもらいました。
死体を抱えて電車に乗れないので、タクシーを呼んでもらいました。
先生は、死体だと嫌がる人がいるので箱に蓋をしてこっそり乗ろうというので、段ボールを見ながら泣いていたらおかしいでしょ、と事前に伝えてもらうように言いました。
タクシーを待つ間、先生の奥さんの女医さんが、「るりちゃんはよくがんばったし、お母さんもよくがんばった。この子は幸せね、だからあなたはごめんねなんて言う必要ないのよ」と言ってくださいました。
私は鼻水だらけの顔で「違う、私は頑張れなかった」と言うと、これだけ良い医療を受けさせてきたんだから、と言ってくださるのです。
確かに東大病院に2回かかったし、家でも皮下輸液と1日5回の飲み薬、透析と貧乏家庭にしてはがんばって良い医療は受けさせました。
だけどこんなことは、人間の子で言うと良い教育を受けさせている程度のことです。
イコール良い親ではありません。
最低限のことをやったにすぎません。
もっとやれることがあった。
タクシーの運転手さんは、老衰で猫を亡くし、心筋梗塞で奥さんを亡くし、娘さんは難病だそうです。
この優しいおじさんから、なんでこんなにいろんなものを奪うのだろうかと思います。
夫は仕事を早退させてもらい、家の前でタクシーを待ってるりを受けとってくれました。
ピンクだった鼻と肉球が白くなってしまったので、私のチークで整えました。
「ママにしかできないね」と夫が言って、その様子を写真に撮ってくれたのがうれしかった。
鼻から汁が出てきてしまったので、いつもの病院に電話すると、連れてきてほしいとのこと。
見えないようにきれいに詰め物をして、看護師さんみなさんで死体なのにキスをして送ってくださいました。
るりはたくさんの人に愛されていたんだなと実感しました。
その日はるりを一人にしないと決めて、夫と交互に、るりのために1人で買い物をする時間を作りました。
私は5種類のひまわりを1本ずつの花束とかわいいキャンドルを用意しました。
夫はるりの好きそうな食べ物を買ってきました。
不思議なことがありました。
るりのために冷房をガンガンにつけていて、私は冷え性で、すぐに寒がります。
それなのに、暑かったのです。
「本当に冷房ついてる?暖房22度じゃないの?」と疑うほど、実際に動いてもないのに汗ばんでいて、で夫にも驚かれました。
るりが私の中にいたのでしょう。
るりは初めてお酒を飲んで、お魚とケーキを食べて、眠りました。
6月18日
葬儀を明日に控えていました。
母と祖母といつもの先生からお花が届きました。
るりはお花畑で眠るお姫様にしか見えませんでした。
るりの穏やかな顔を見ていると、明日の葬儀をキャンセルしてはく製にしたくなりました。
調べるといろいろかわいそうなことになるのでやめましたが、はく製を作る人、クローンを作る人の気持ちは痛いほど理解できました。
この日はドライアイスがありました。
私は少しだけ冷房の温度を上げました。
自分にちょうど良いようにしていれば、るりにもちょうどいいはずだと思いました。
だんだんと硬直が緩解していました。
だけどそのほうが、不自然な形で固まっているよりずっとるりらしくて好きでした。
この日はるりが前にゴミ箱から漁り出してきたところを怒ったケンタを一緒に食べました。
6月19日
葬儀当日を迎えました。
近くの花屋さんに頼んだ1万円分のひまわりで見送りました。
葬儀については後日書かせていただきます。